網走監獄
▶網走監獄
小樽から北海道に上陸して、いろんなところを回ったのだけど、今回一番勉強になったのが網走監獄博物館。
ここを訪れるまでは、網走監獄というと、日本で一番過酷な刑務所というくらいのイメージしかなかったし、過酷なのも「寒いから」だろうと思っていた。
たしかに寒いというのはあったのだろうが、それに加えて、過酷な労働があったことが「網走監獄」の名前を有名にした。
高校では日本史を取っていたし、近代国家に向けての政策を推し進めていた明治政府がロシアの南下に備え、北海道の開拓のために、開拓使を設置したり、屯田兵を置いたりしていたというのは、知っていた。
だから北海道は、開拓使や屯田兵、移住民が開いていったのだと思っていた。
だけど、屯田兵が開拓を行うためにも、基本的な幹線道路や農地の開拓、住居が必要であり、屯田兵が入る前に、密林を切り開いて、その建設を行ったのが網走監獄の囚人たちだった。
つまり北海道のこの地にこのような監獄が設置されたのは囚人を労働力として使い、安価に、そして急速に基礎的なインフラを整えるためということ。
この発想は太政官大書記という役職に就いていた金子堅太郎のものらしいのだが、金子は「元々彼等は暴戻の悪徒であって、尋常の工夫では耐えられぬ苦役に充て、これにより斃(たお)れても、監獄費の支出が減るわけで万やむをえざるなり」と言っている。
重罪を犯した悪人どもだから、北海道開拓のための苦役によって多少死んでも、監獄費の節約につながるという考え。
そのような過酷な労働によって、囚人とはいえ、多くの犠牲のもとに現在の北海道が作られているというのはもっと知られるべきだと思ったし、高校の日本史の教科書にももっと詳しく記述されてもいいんではないかなあと思った。
▶今日の関連株
日本には監獄・刑務所の関連株というのはないけれど、アメリカでは民間刑務所があり、そのいくつかが上場している。